瞑想とは

長年インドに通い続け伝統的なヨガや瞑想を学んできた日本人女性初のアシュタンガヨガ正式指導資格者、吉川めいによる瞑想についての解説です。

  • 瞑想とは

    瞑想とは、一般的に心を静かに安定させる実践として定義されます。瞑想練習の基本は「ただ坐る」「ただ観る」というシンプルな非行為的な行い(non-action)です。「ただ坐る」ことは、坐りながら「私は在る(I am)」と認知し、思考や感情などの心の内容物を観察することを通じて心の安定性を養うプラクティスです。

    また、そこで育まれた自覚意識(アウェアネス)は気づきのある状態(マインドフルネス)を促し、心の揺れを抑え、次第に思考や感情に振り回されにくい、安定した意識の土台を思い出させてくれるでしょう。

    日本語の「瞑想」はサンスクリット語の「ディヤーナ」に由来する言葉です。それは、集中を保持した先に至る状態であり、頭で理解するコンセプトや努力で得る状態とは異なります。

    「メディテーション」は英語で「瞑想」を指す言葉です。その語源はラテン語の "meditatum" から来ており、「思索する」という意味があります。

    チベット語で「瞑想」は「ゴム(gom または ghom)」と言い、「慣れ親しむ」という意味があります。つまり、瞑想の実践は心の内容や働きについてまずよく知り、深い洞察を促すということです。最終的には心の動きに支配されない、心を超越した状態(「私はただ在る(I am)」)に慣れ親しむことを指します。

  • 「瞑想」における2つの定義

    私は、瞑想をよりわかりやすくするために、以下の2つの定義を用いて説明します。

    1. 「瞑想」という練習
    2. 「瞑想」という状態


    1は2を目指していると言えます。
    それぞれを見てみましょう。

  • 1. 様々な「瞑想」の練習方法

    瞑想には、様々な具体的な方法があります。有名なものには、静座、坐禅、ヴィパッサナー瞑想、慈悲の瞑想(慈愛の瞑想)、マントラ瞑想、トラタカ(一点集中)瞑想、阿字観瞑想、マインドフルネス瞑想などがあります。

    他にも、音楽やガイドを用いたガイデッド・メディテーション(誘導瞑想)や呼吸法など、瞑想練習やその入り口として挙げられますが、本来瞑想はどのアプローチを活用しても2の状態を目指していることには変わりなく、重要なのは安定した形で継続することです。

    実際にやっていただければわかるのですが、ストレス軽減や自己認知の向上など、身体と心の健康や気づきの意識のある暮らし(マインドフルネス)など、数多くの利点があります。

    では、全てが目指している2の瞑想状態について少しお話ししましょう。

  • 2.「瞑想」という状態とは

    仏教では「無心」と呼んだりします。時間や空間など、人の思考のコンセプトから解放されている状態です。インド哲学においては「I」(私、我)を最初の思考と認知するので、最終的には「I」(私、我)というアイディア、コンセプトさえも超越します。

    その手前でも感じられる瞑想のベネフィットはたくさんあります。時間がない、眠っていない、自覚意識(アウェアネス)がある、気づいている。このような状態が育まれるから、マインドフルネスが捗るのです。

    最後に、瞑想は実践につきます。瞑想はコンセプトや思考自体を超越するものなので、それ自体を「分かる」ものではありません。

    例えば、瞑想の資格や免許があるということはその流派について学んでいる証拠にはなりますが、実践がどれくらい進んでいるかの証明にはならないということです。

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瞑想練習の効果はどんなもの?

私、吉川めいのInstagramのアカウントで瞑想の効果についてアンケートをとったものです。

・イライラしにくくなった
・ムカついても感情的にならなくなった
・感情に振り回されなくなった
・感情から直接行動せず一呼吸おけるようになった
・心が揺さぶられることがあっても、心が乱されなくなった
・嫌なことがあっても引きずらなくなった
・以前は思いつかないような答えが浮かぶようになった
・日々の小さなことに喜びが感じられるようになった
・心の中にいる本当の自分に戻れた感じ
・ネガティブになった時に、自分に優しくできるようになった
・自分を客観的に見れるようになった
・自分の嫌な部分も受け入れることができるようになった
・自分一人の平和な空間が持てるようになった
・心に余白が生まれて心地が良い
・精神的に強くなった
・自分に優しくなり、その結果周りにも優しくなった
・怖くて踏み出せなかった一歩が踏み出せるようになった
・思考のグルグルから解き放たれた
・心が落ち着くお守りを手に入れた気分

これらは、瞑想練習生の特徴とも言えるでしょう。

なぜ、最初は瞑想って難しいの?

ずっと仕事で座ってばかりで、猫背で腰痛持ちの人が運動不足の状態でヨガなどの運動を始めると、最初は辛いものです。それは、体が猫背で腰が凝り固まった状態に「慣れ親しんで」しまっているからです。

しかし、少しずつ運動を続けていると、体は自然治癒力や中庸の元々持っている感覚を思い出します。すると、良い姿勢が最も心地よくなり、体の基礎姿勢がよくなることで生活が楽になり、病気や身体的な不具合を防ぐことができるのです。

同じように、ずっとジャンクフードばかり食べていた人にとって、新鮮なサラダを食べても物足りなくて美味しく感じられないかもしれません。それは、舌が添加物などの刺激に慣れてしまい、本来の調和のとれた自然の味を楽しむ感度が鈍ってしまっているからです。

瞑想練習でも、最初に坐ると、まずムズムズして体が動きたくなり、考え事が始まってただ熟考する時間になってしまう、リラックスしたら疲れが溜まっていた心と体が眠気に襲われるなどの初期症状が出ます。それもそのはず、現代社会は「考えること」「計算すること」「過去を振り返ること」「心配すること」などがデフォルト設定になってしまっています。「今、ここ」に意識を置いたまま、「ただ在るだけ」といったシンプルな状態の方がむしろ難関なのです。

しかし、正しい認識を持ちつつ瞑想練習を続ける価値はまさにここにあります。野生動物を時間をかけて優しく調教するように、自分の心のワイルドな動きの扱い方を覚えることができたなら。瞑想練習を継続することの結果は、上記のInstagramに届いたみなさんの瞑想の効果についての回答が何より物語っています。

瞑想は怖くて怪しいもの?

皆さまは、「瞑想って…怪しくない?」といったような、瞑想に対して少し恐れや近寄り難いイメージを持たれたことはありませんか?

日本においては、1995年の地下鉄サリン事件を起こした宗教団体が瞑想やヨガを取り入れていたことから、瞑想は風評被害ともいえるネガティブな影響を大きく受けていると言えます。当時の印象を直接覚えていない方であっても、いまだにヨガや瞑想に対して「なんとなく怖い」という印象をお持ちの方もいらっしゃるかもしれません。しかし、近年ではグローバル化の進展に伴い、外資系の大手企業や有名大学が瞑想やヨガを取り入れるなど、海外の情報も多く伝わるようになり、ヨガや瞑想に対してポジティブな印象を持つ方も増えてきています。

瞑想は、心の中の領域に関するものであるため、大きな力を持っており、それを「怖い」と感じる方がいらっしゃるのは健全なことだと私は考えます。むしろ、場合によってはこのような慎重さを持つことが、盲目的に飛び込むよりも望ましいとも言えるでしょう。

それでは、どのような瞑想が怪しいネガティブなもので、どのような瞑想があなたの力となるポジティブなものなのでしょうか?ポイントは「判断軸が自分にあるのか、それとも他にあるのか」です。

本来、瞑想とは「ニュートラルな意識状態に慣れ親しむこと」であり、これはあなたがあなた自身のために行うものです。ニュートラルな意識状態になったとき、自分の判断で自分の内面を観て感じ、またその瞑想での気づきを自分の判断で日常に生かしていくものです。インストラクターがいる場合でも、インストラクターはあくまであなたがニュートラルな状態になれるよう、様々な角度から支援する存在に過ぎません。

ニュートラルな状態になった際に、指導者が個人的な主義や主張を伝えるような場合、それは瞑想ではなく、洗脳と言えるでしょう。瞑想とは「誰かの思考や観念」を(本人の意思とは無関係に)植え付けるものではありません。

ご自身の「判断」を放棄し、瞑想を誘導する側に(盲目的に)答えや判断を委ねることのないようにしてください。自分の望まない思想の“種”を植え付けられることもあり、それこそがまさに皆さまが怖れている点ではないでしょうか。

あくまで、瞑想をして自分を観るのもあなた自身であり、気づくのもあなた自身であり、答えはあなたの中にあります。誰かや何かに依存して答えを求めるものではないことを認識していただければ、瞑想は決して怖いものではないとご理解いただけるでしょう。

(なお、ヒプノセラピーやイメージ瞑想など、セラピーを目的とした瞑想の分野においては、これまでネガティブだった心の土壌に、あえてポジティブなイメージや発想を“植え付ける”方法もあります。しかし、そのような手法を選ぶかどうかは、必ず実践者ご本人にあるということを忘れないでください。)

瞑想の練習方法や先生を選ぶ際の注意点

瞑想の練習方法は数多く存在しますが、その中から自分に合うものを見つけるには、ご縁のある方法をいくつか試してみる他ありません。新しいことを学ぶ際にはどの分野でも同様ですが、その際には実際にそのメソッドを経験した方の口コミやレビューが参考になるでしょう。しかしながら、瞑想については特に、心の内面という繊細な領域に関わるため、自分にとって心地よい(少なくとも違和感のない)メソッドが見つかるまで、いくつか試してみることが必要だと考えます。

前述しましたように、すべての「瞑想の練習」が目指しているのは「瞑想という状態」です。その意味で、音楽やガイドなどを使った瞑想練習は、水泳でいうところの「ビート板」のようなものであり、それらは初期段階での支えとなるツールに過ぎません。そのため、それらのツールがなくても瞑想ができるようになることが理想であり、「そのツールがないと瞑想できない」といった状態に留まらないよう注意が必要です。

また、瞑想の指導においては、坐り方や練習の段階で起こるステップを詳細に解説し、わかりやすく導いてくれる指導者の存在が重要です。そのような指導者は、「テキストなどの情報」だけでなく、自身が積み重ねてきた「坐る経験」を持っている方であるべきです。例えば、料理の知識が豊富でも実際の調理経験が少ない先生から学びたいとは思わないのと同じで、瞑想でも知識以上に実践の経験を重視するのが望ましいのです。それは、言葉や説明以上に、その人が持つ存在感から沈黙の中で伝わるものが大きいからです。

さらに、良い指導者は「私のメソッドがすべて」とは言わないでしょう。瞑想の目的は同じでも、その入り口は複数あることを理解しているため、広い心で他の方法も尊重する姿勢を持っています。また、「答えは必ずあなたの中にある」と伝え、練習生をサポートする役割を果たし、「答えは私が持っているから従いなさい」といった態度は決して取らないはずです。

つまり、瞑想とは本来、自分自身を強化するものであり、その学びの過程においても、指導者は生徒を依存させないよう心がけるべきだと私は考えます。

はじめての瞑想 5つのステップ

  • 1. Breathe & Relax(姿勢)
    深い呼吸と姿勢を整えることが最初のステップです。リラックスには程度があり、これ以上力が抜けないくらいまで、完全なリラックスを目指しましょう。姿勢を保つことで神経システムもリラックスさせ、副交感神経が優位になるよう心がけます。

    2. 挨拶
    自分に対して「I am here(私は“在る”)」と挨拶する気持ちで行います。他人が悩んでいるときに「ここにいるからね」と声をかけるように、自分の存在を自覚し、その事実を受け入れます。

    3. 一点集中
    複数のことを考えるのではなく、一つの対象に集中すること。瞑想中には目を閉じて呼吸に焦点を当てるか、目を開いて具体的な対象に注目を集めます。このステップでは集中を保持することが大切です。

    4. 柔らかい観察
    ただここにいる・在るという事実にフォーカスし、柔らかい観察で集中を継続します。無理なく、力を抜いた状態で観察することが重要なのは、力んでいると継続が難しいからです。

    5. ただ在る
    特定のタスクを与えるのではなく、ただ存在すること(Being)に焦点を当てます。柔らかな観察と集中を継続することが重要です。そうすることで、初めのうちは特に、思考や感情、記憶や想像が浮かび上がってくることが多いでしょう。これらのものに対しては、「ただ在る」中で「ただ観る」ことを心がけましょう。「考えている」という状態から「考えがあるな」と観察している状態で座るよう意識してください。

    このステップを毎日の継続的な実践によって自然なものにしていくことで、効果的な瞑想の状態が身についてくるでしょう。瞑想の効果を感じるためには継続が欠かせません。一度だけでなく、毎日少しずつでも続けることが大切です。1週間に1回の長時間よりも、毎日短時間の瞑想の方が効果的です。この習慣が心のパターンを再構築し、瞑想の効果を最大限に引き出す手助けとなります。

瞑想の基本姿勢

心リセット 均等呼吸法

呼吸は鼻から吸って鼻から吐く、安定的な均等呼吸が理想です。
動画を見ながらやってみましょう。

よくあるご質問

瞑想を始めた方からよくいただくご質問に吉川めいが答えます。

姿勢/呼吸について

瞑想中に体がかゆくなったら、かいても大丈夫ですか?

2つの考え方ができます。お好きな方を選んでみると良いでしょう。
1) かゆみをかゆみとして「観る」。ただ坐り続ける。すると、かかないでいると必ずかゆみにはピークがきて、峠が過ぎると引きます。

2) その方法でどうしても集中が途絶えるなら一度かいてしまって、かくことを済ませてさっさと瞑想に戻りましょう。ただし、何度もかくことに戻らないよう、注意しましょう。

瞑想する時手のひらを上に向けるのは何か意味があるのでしょうか??

1番いいのは、ご自身の自主練の際に手のひらを上に向けた瞑想と下に(膝の方へ)向けた練習を両方トライしていただき、違いを体感していただくことです。
一般的には手のひらを上へ向けている方が“受け取る”体勢であるように、坐る本人の気の巡りがオープンな状態。下へ向いている方が、根を張るようにグラウンディング(地のに根ざす)すると言われています。

あぐら姿勢でお尻の下にクッションを入れて座ると、足先が痺れることがあります。それもただ観ていればいいのでしょうか?瞑想前に座り方を変えてみた方がいいですか?

2つのアプローチが考えられます。
①10分程度の短い時間しか坐らないのであれば、足の痺れを観察の対象として坐り続ける。
②足の不快感が雑念となって集中しにくいようでしたら、おしりの下のクッションをなお高くする。ヨガブロックなどを使っても良いでしょう。または、椅子など高さのあるものにきりかえて、背筋を伸ばして坐っていただくのでもよいです。
お好きな方をお選びください。

膝などが悪く椅子で瞑想していたのですが、ふと脚を下におろさない方がスムーズに集中やリラックスできることに気づきました。オットマンに脚を乗せたり、マットで長座や開脚の姿勢はNGでしょうか?

長座の姿勢やオットマン等に脚を上げると、必然的に骨盤を立てて上半身を持ち上げることが少し難しくなるかと思います。当ページの動画「瞑想の基本姿勢」でもあった通り、瞑想については「骨盤を立てて頭のてっぺんまでまっすぐに」を心がけていただきたいと思います。開脚姿勢についても同じく、長時間坐るとやはり姿勢をキープしずらいかと思います。しかしながら、10分瞑想のような初歩的な瞑想であれば、割り切って個人のプレファレンスとしてやりやすいように坐るのでも良いかと思います。

体調などが理由で瞑想を座ってできない時、横になって瞑想をしても良いですか?またその時の注意点を教えてください。

横になった瞑想からのスタートでもOKです。その際、なるべくベッドや布団など、普段睡眠をとる場所を避けていただくことがおすすめです(眠気に襲われやすいです)。例えば、ヨガマットの上や畳みの上など、いかがでしょうか。お身体に無理のないような体勢を作ってみてくださいね。

瞑想が始まると、眠くて眠くてたまらなくなります。どうすればいいでしょうか?

瞑想時の睡魔について、いくつかのサジェスチョンをまとめます。それぞれやってみて試してください。

①「眠くなっているな」をただ観る時、さらにもう一歩踏み込んで「眠くなり始めているな」「眠気が近づいている」など、睡魔の"始まり"から少々身構えるようにして「今日は眠気に持っていかれない!」と心に決めてみる

②10〜15分程度の瞑想なら立ってやってみる。


③経行=きんひんという禅のプラクティスがあります。一定の場所を歩くウォーキング・メディテーションです。試しにそちらに切り替えてみるのもいいかもしれません。
きんひんの際は散歩のように色々考えながら歩くだけにならないよう、狭い範囲で周囲を決めるなどして一定の場所を歩くことや目線を(伏せ目などで)定めて歩くことをおすすめします。

いずれにせよ、何回眠ってしまってもぜひ根気よく瞑想の練習を「それでも続けて」みてください。次第にそのフェーズは過ぎるかと思います。

瞑想のときの呼吸はどのようにすればいいですか?

呼吸は鼻から吸って鼻から吐く、安定的な均等呼吸が理想です。YouTubeの私の動画「心リラックス 均等呼吸法」も活用いただき、それとあわせて練習してみてください。

吐く息に力が入ってしまいがちです。リラックスしようと意識すればするほど力が入ってる気がするのですがどうしたらいいでしょうか?

吐く息はリラックスであり、リラックスとは力を抜くこと。つまり頑張って行うものとは異なります。
息を吐く時は、とーにかく体をリラックスして脱力する。ゆっくりと最高の温度の温泉浸かるように、「ふぅ」と吐き出す。鼻からが辛い場合は、最初は数回口から吐き出してOK。骨の芯まで安心して脱力して吐きましょう。温泉でなくとも、あなたにとって最も脱力できることを思い出しながら行ってみてください。ほかに、森林浴や海など、機会のあるときに自然の力を借りて身を任せるように呼吸をすることも良いでしょう。

パニック障害のような症状があります。意識を呼吸に向けると吐くことが特に苦しく、そんな自分の浅い呼吸でフラッシュバックのように動悸がしたり、息が苦しいという恐怖感に襲われます。安心してやさしい心で呼吸ができるような自分になりたいです。

ご自身の経験で、パニックのような、呼吸に対する安心感がまだなくてお困りとのこと。よかったら、次のことを試してみてください。

息を吐く時は、とーにかく体をリラックスして脱力する。ゆっくりと最高の温度の温泉浸かるように、「ふぅ」と吐き出す。鼻からが辛い場合は、最初は数回口から吐き出してOK。骨の芯まで安心して脱力して吐きましょう。
息を吸う時は、あなたの目の前に、大好きなごちそうがずらりと並んでいるイメージで、その香りを嗅ぐように吸ってみてください。
これを繰り返して、少しづつ、安定的な、安心呼吸に慣れていきましょう。

感情/感覚について

瞑想中に涙が出ることや笑いが出るなど「感情」が出てくるのはなぜですか?

瞑想中の「間(ま)」で浮上する感情のエネルギーは、普段知らぬ間に抑えてしまわれていたものが多いです。それだけ、日頃から頑張っていたり、我慢していることが多かったのだと思います。その多くは抑えていたとすら自覚できていないものです(だからこそ奥へしまわれていた感じです)。

ただ感じて、観て、共に在るだけで良いです。その際、密かに「早く終わってほしい」など、出てくる感情を嫌がったり、否定する想いがないか注意深く観てみてください。あなたの中に浮上する感情は何一つ“悪者”ではありません。

出てきている最中はなかなかのチャレンジなのですが、自分に優しく、出てくる感情のエネルギーをそのまま観て、受け止め、味わい、避けずに身体の中を”通らせてあげる“ことを「急がず、せかさず」やってみてください。

瞑想で自分の全ての気持ちを受け止めるたびに涙が出ます。その感情はどのように受け止めてあげたらよいですか?

瞑想中の「間(ま)」で浮上する感情のエネルギーは、普段知らぬ間に抑えてしまわれていたものが多いです。それだけ、日頃から頑張っていたり、我慢していることが多かったのだと思います。その多くは抑えていたとすら自覚できていないものです(だからこそ奥へしまわれていた感じです)。

ただ感じて、観て、共に在るだけで良いです。その際、密かに「早く終わってほしい」など、出てくる感情を嫌がったり、否定する想いがないか注意深く観てみてください。あなたの中に浮上する感情は何一つ“悪者”ではありません。
出てきている最中はなかなかのチャレンジなのですが、自分に優しく、出てくる感情のエネルギーをそのまま観て、受け止め、味わい、避けずに身体の中を”通らせてあげる“ことを「急がず、せかさず」やってみてください。

心臓がすごくバクバクしているのを感じました。特に何か感情が出てきたのではなく、身体が反応している感じです。抑制していた感情が涙となって出るように、何か押さえていたものが身体の感覚となって出ることもありますか?

はい、あります。
例えば、身体に蓄積されていた緊張感のリリースだったり、過去の経験からの神経の反応だったり、人によって様々な要因があるかと思います。しかし、原因は問わず感情のご質問と対処は同じで、自分の中に浮上するものと戦わず、やさしく見守り、認め、"通らせてあげる"こと。無視せず、否定せず。かといって重視しすぎる訳でもなく、ニュートラルに観て、見守って、通してあげることで十分です。

瞑想中に感情が浮上するとききますが、私は何の感情も出てきません。瞑想の仕方が間違っているのでしょうか?

瞑想中の「間(ま)」で浮上する感情のエネルギーは、普段知らぬ間に抑えてしまわれていたものが多いです。

坐っていてとくに感情が浮上しない方、涙が出ない方も間違っていません。ご安心ください。人の心は豊かです。それぞれ自分のプロセスとタイミングというものがあります。「今は何かが出てくる時ではないのだな」と自分のリズムを信じてあげてください。

瞑想をした日や瞑想の頻度が高い時期に、元々敏感な感覚(感受性)が鋭敏になり過ぎてしまったり、逆に五感が膜を張ったようにぼーっとしてしまうことがあります。長く続けていくとそういうことは減りますか?

はい。瞑想と同時に、瞑想で鍛えられるアウェアネス(気づきの意識)の発達があり、より敏感な気づきをどうハンドリングするかの術を身につけていくでしょう。このとき、適切な指導も役立ちます。逆にボーッとしてしまうことも、同じように気づきの意識の中でハンドリングできてくるでしょう。

瞑想後、なぜか悲しい気持ちに満ち溢れて胸騒ぎがします。自分で深掘ってみても原因に行き着けず、胸に手を当てて温めながら横たわって過ごしていますが、こういう事は瞑想の好転反応としてある事ですか?そんな時はどうするのが良いですか?

2つのことをシェアします。
①これまで抑えていたり、蓄積されていた感情は瞑想というやさしい「間」の中で浮上することはよくあります。もちろん、その多くは抑えていたと自覚できていないものです(だからこそ奥へしまわれていた感じです)。好転反応と捉えて良いでしょう。

②今、本能的にやって頂いている通り、自分に優しく、出てくる感情のエネルギーをそのまま観て、受け止め、味わい、避けずに身体の中を”通らせてあげる“ので良いです。

「急がず、せかさず」がポイントです。時間をかけて行う価値のあるプロセスがあるからです。原因もわからないときはわかろうとしないで良いです。

瞑想中の背景にあるいわゆる「静けさ」をとらえられずにいます。冷蔵庫の音や自分の呼吸音はキャッチできるのですが、瞑想の「静けさ」をキャッチするのは、例えば「冷蔵庫の音の他には何も聞こえない」と感じることなのでしょうか?

感じ方は、人により様々です。あなたにとって「冷蔵庫の音の他には何も聞こえない」のであれば、そのままその”無音"に注目を向けてもらうので良いです。

「ただ観る」について

瞑想中に風景やイメージが思い浮かぶことがあるのですが、そこにフォーカスを向けない方がいいですか?

瞑想中に映像が浮かび上がった場合、とくにそこにフォーカスを向けないまま、映画を鑑賞するように"眺めて、流す(フォーカスしない)"で良いです。認知するけど、固執しないイメージです。

何度も浮上してくる記憶や個人的な観念(ビリーフ)に対して、「ただ観る」という状態の距離感や姿勢が腑に落ちずにいます。目を背けることとは異なりますか?

ビリーフ(観念)については、それを「観て」「気づく」と、解かれるような感覚があるかと思います。観念を真実として捉えていた状態から、観念はただの観念だった、と気づくということです。したがって、同じ記憶や観念が何度もあがってきているということは、まだそれを本質的に見通していないということではないかと思われます。いずれにせよ瞑想で浮上したものを「観る」とは、「目を背ける」とは違うので、何度も浮上してくる記憶やビリーフ(観念)について、それがあなたに示してくれている"メッセージ"(教えてくれていることは何なのか?)を受け取る必要があると私は考えます。それを掴むことができると、同じパターンはおさまり、自然と出てこなくなるものです。

感覚に焦点を当てた瞑想で、努力して意識を無音や自分自身へと向けている自分に疑問を持ちました。瞑想を続けていくうちに、この『努力』は消えていくものなのでしょうか?

おっしゃる通り、「努力」や「頑張り」は瞑想状態へ近づいていく上で減っていくものです。最初のうちは「頑張って坐る」とか「努力して意識を無音へ向けている」感覚があるのは、多くの人が通る"通り道"だと捉えていただいたら良いかと思います。理由は、それほど私たちの現代社会において努力や頑張りが癖づいているからです。先週、感覚の話でもあった通り、力を抜く方が難しく感じてしまうほど。だから、いつもと違うことを選ぼうとすることに最初は"努力している”ように感じることがあります。
しかし、例えるなら「体重を右脚にかけていたのを左脚に移す」くらいシンプルに、実際はただあなたが「選ぶ」だけで意識をシフトすることができます。ただ選んで、意識を音から無音へシフトする、みたいな感覚です。練習を続けていくうちに、そうやって不要な力みや努力は消えていくでしょう。

普段の日常では自分で自分をダメ出ししてしまうのですが、瞑想中は、そのダメ出し思考を眺め「大丈夫」と自分で自分に言えた瞬間にわたしはよく涙も出ます。ほぼ毎回なのですが、これは瞑想ではなく熟考してしまっていることになりますか?

思考を眺めているなら、熟考ではないと思います。出てくる感情のエネルギーを流してあげて、リリースしていってください。泣くことを抑制しないでいいです。

瞑想前から心地よい感情があり、瞑想中もそのまま心地よく座っていたのですが、後から振り返ると感情と一体化して浸っていただけで、感情の観察はできていなかったようにも思います。瞑想中は瞑想前の状態から離れて観察するものなのでしょうか?

「心地よい」といったポジティブな感情や思考も、ネガティブなものと変わらず同じように平たく観察し、気づいていただくので良いです。
後から振り返るとただ瞑想前の感情浸っていただけで観察できていなかったかもしれない、とおっしゃりますが、そもそもこうして後にそのことに気づけていること自体が、「ただ観る」意識がゼロではなかったことの証です。

ポジティブな感情や思考も「ただ観察」してしまったら、楽しく味わえないというマイナス面があるのではないでしょうか?

これは一時的な思い過ごしだと私は思います。というのも、ポジティブなことを観察できたところでその感覚や味わいが"減る"訳ではないからです。むしろ、I am(ただ在る)の意識に重きを置けるようになってくると、ポジティブもネガティブも同じように ”味わえている実感”(今、ここに居る)が深まり感じられるかと思います。

今朝雨の音や車の行き交う音、洗濯機が回っている音に耳を澄ませながら、自分の中にある静けさの中に座っていたら、ふと雨の音や洗濯機の音と''共にある''感覚、つながりを感じました。これが、瞑想で感じるワンネスというものですか?

それがワンネスなのかどうか、判断を下さないままただ観て、感じて、坐っているので十分です。なぜなら、「それがワンネスなのか?」と、体験を概念化したり思考を働かせ定義づけしようとすることでことでむしろその瞬間のつながりを(定義や概念という思考により)断絶してしまうからです。

その他

とても忙しく瞑想が物理的にできない日があります。そのような時はどうすればいいですか?

実際に一人で坐って瞑想をする時間が確保できなくても、「I am(ただ在る、実在する)」にフォーカスを当てることはいつでもできると思います。例えば、子どもが小さかった時、私にとって授乳の時間は至福の瞑想タイムと捉えていました。携帯やテレビなどの"ながら"をしない、自分と子どもの間に広がる循環にだけフォーカスし、そこに在ることを味わっていました。よかったら、同じように少し瞑想の定義を広め、子どもと一緒の時間の中でも見つけられる「I am」に焦点を当ててみてくださいね。

痛みや息苦しさが強く、ただ座ることさえできる気がしない時はどうしたらいいですか?あえて座る?それとも、座りたくない自分を受けとめ瞑想しないことを自分に許可する?もしくは、こうして自分と自己対話する時間がすでに瞑想であり自分への愛なのでしょうか?

「坐りたくない、けど坐る」「坐りたくないを受け止める」「私はどうしたい?」と言った自分との対話は、すべて正解です。強いて言うなら、どれが「今日の自分に一番必要な優しさなのか」を確認してみてください。
規律という名の愛。受容という名の愛。傾聴という名の愛。わたしが思うに、全て愛です。辛いのは、その認識ができていなくて自分を責めてしまったり、疑ってしまう時。または、本当は規律が必要なのに、ちょびっと自分をごまかして"今日は受け入れの日だから〜"みたいな都合のいいことを言ってしまっう時。結局、ごまかしているのも甘やかしているのも自分なので、ツケが返ってくるのも自分なんですけどね。迷いや疑いが、坐る練習を続けていく中で大幅に減少するのは、今日のプログラムのお話でもあった通り、コツコツ日に日に坐り続けることで「心を静かにする」以上にまず、「自分に会いにいく」こと。その中で、純粋に、ピュアに自分を観ることで、自己の信頼、すなわち=自信が芽生えてくるからです。
Don't worry. 心配せずに。一歩ずつ、あなたのやり方で進めていってくださいね。

目を閉じている時は思考や感情に気付くことに集中できても、目を開けて日常に戻ると、何かしらを考えていて瞑想の感覚と繋げることが難しいです。瞑想を続けることで自然と「今ここに在ること」が日常の中でもできるようになりますか?

瞑想を続けることで、自然と、今あること、アウェアネス(気づきの意識)または自己認識が育まれてきます。ですので、気にして、頑張って今ここにいなきゃ!と思わなくても、コツコツと日々の瞑想で自分の心のうち、自分の意識の状態を観察することを続けていただいたら、自然と今あることが日常の中でも、感覚的に育まれてくると思います。

日常生活でも自分を観て気づけるようになってきたのですが、気づけてもその後その状況から切り替えることが苦手です。切り替えのコツはありますか?

日常の暮らしにおいて、思うように切り替え上手になりきれていないとのこと。
まず、「切り替えたいのに切り替えられていない」と気づけるほど気づきの意識(アウェアネス)があるのだと思います。要するに、あなたなりに次の段階へ進んでいるということです。ネガティブモードが切り替えれない時は誰だってあります。大切なのは、そんな自分を責めないこと。ジャッジしないこと。そんな自分も"自分のうち"と捉え、そんな自分を大切にしてあげましょう。それは、自分のネガティブな側面を否定せず、嫌がらないということです。

また、この質問には「坐ることを継続していたらもっと切り替え上手になるはずだ」といった観念が隠れています。この考えが間違っていると言いたい訳ではありませんが、少なくとも「あなたの思い通りになるとは限らない」ことは確かです。瞑想を続けることで切り替えが上手くなるには2つのルートがあります。
①ネガティブを切り替える時には選んで切り替える
②それができない時にはそんな自分をおかしいな... とか否定的に捉えたりせずに、そんな自分を「今はこういう時なのかな!私、発展途上だし」と、認めてあげることが鍵を握っています。

瞑想について友人から、「瞑想はスピリチュアルと繋がる一面もあり、悪い物と繋がる可能性もあるから気をつけた方がいい」と言われました。瞑想とスピリチュアルの関係について、めいさんの考えがあれば教えて頂けたら嬉しいです。

瞑想だけをきっかけに「悪い気を引き寄せる」とは考え難いです。
詳しくは当ページにに記載した「瞑想は怖くて怪しいもの?」という質問の回答を読んでみてください。
「ポイントは"判断軸が自分にあるのか、それとも他にあるのか"」と強調している通り、もしあなたの中に悪い気を引き寄せてしまう懸念があるのなら、あなたの意識を使って「悪い気を引き寄せません」と意図して決めれば良いだけです。ご友人の方がおっしゃる「スピリチュアル」とはどのような意味合いを指してお話しされているのか不明確ですが、前述の内容の通り、瞑想練習生として外のものに盲目的に従うことをしないでいれば、特に恐れる必要はないかと思います。

近年の世界情勢の不安定さに暗い気持ちや不安に囚われて活力が生まれない日が多々あります。自分の力では到底変えられない世界規模の大きな問題と気持ちの折り合いをつけるのにも瞑想やyogaは有効ですか?

ヨガや瞑想を使ったり、祈りを使ったり。自分にとって合う方法、効く方法を取り入れることができます。瞑想が指している心の知恵は、あなたがあなた自身の意識の方向づけをできるということ。
「変えられないものにフォーカス(固執)していたら辛くなって当たり前」ですが、同じ人が意識をシフトするだけで「変えられるものにフォーカスすること」ができます。
つまり、一人の人間の力で世界情勢を動かすことはできませんが、一人の力で「その人の世界」を変えることができる。そうやって、いい波紋を広げていくこと。一人ひとりが自分から変わることで、ひいては集合体が変わるのだと私は思っています。
ガンジー氏の言っていた"Be the change you wish to see in the world." (「世の中に変化を求めるなら、あなた自身がその変化そのものに成りなさい」)ということです。
今日も、まずは自分の心、自分の呼吸から丁寧に扱っていきましょう。